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■討論会

西日本総合展示場新館会議室
コーディネーター   尾島 俊雄(早稲田大学教授)
パネラー       井手 久登(東京大学名誉教授)
           藤沢 寿郎(INAX取締役)
           中村 良三(西武建設専務取締役)
           上山 良子(上山良子ランドスケープデザイン研究所所長)
           曽宇 泰子(長岡造形大学教授)
           デワンカー・バート(早稲田大学理工学総合研究センター講師)
尾島 俊雄(早稲田大学教授)
この分野の産業構造の転換に伴って、今後は観光と研究といったことを大きな柱にした第三次産業が考えられる。つまりこれまでは工場があっての都市であったのが、これからは都市そのものが観光の拠点であり、そのものが研究の拠点でもある。また、世界のネットワークをつくらなくてはいけない中で、バート君が景観というテーマを掲げたわけだが、各先生方にはまずそれぞれのお考えをお聞きしたい。
おじま・としお
井手 久登(東京大学名誉教授)
「景観」という言葉は日本語で大変広い意味を持つ言葉であり、私自身もこの言葉をやや拡大した解釈をさせていただく。もともと独語のLandschaft(ランドシャフト)を訳した人たちは、「景観」という言葉を生態学的に秩序のある一つの地域、といった地域概念として使っていたが、一方英語のlandscapeあるいはsceneryという言葉を訳したグループの方は、ビジュアルな・視覚的に見える景観を意味している。しかし私はこの両方が大事だと思う。
言い換えると、生態学的に一つの広がりをもった秩序ある空間で展開されるビジュアルな姿、が景観という言葉の持つ意味と考えており、前者の方の地域概念と言うときには景域という言葉を敢えて用いて使い分けている。しかしあまり厳密に分けるのではなく、生態学的な秩序をつくりつつ、美しい姿をこしらえていくのが景観というものの持つ意味ではないか。
まず、多様性の重要性に触れたい。多様性とは安定化に結びつく重要な要素で、例えば里山のような空間は生物多様性の高い地域であり、それが人々のふれあいを高める空間としても重要である。そのような、人間の行為が入った空間は、生物の多様性を認識しつつ、それをいかに維持・管理・運営していくかと言うことはこれからの大きな課題になる。
二番目には、生態学用語で「エコトーン(ecotone)」という言葉があり、これは二つの異なった生態系の推移帯、とか移行帯の意味で、建築では「中間領域」「中間体」といういわゆる中間的な役割を持つ空間を指す言葉である。例えば潮干帯がその代表的なもので、生物生産的には高い価値を持っている。
先ほどの話に出てきた洞海湾の開発の歴史とは、いわばこのエコトーン、推移帯をだんだんと潰してきた歴史であって、つくってはこなかった。これからエコトーンを再生していこうというプランは非常に重要な提案だ。
エコトーンとはいろんな空間のレベルを指す。例えば森林と草地の間には「林縁」という空間があり、専門用語でマント群落とかソデ群落と言うのだが、こういうところにも非常に多くの鳥の種類が棲んでいる。それから、川の三面張りを取り払って近自然工法にするのも、私に言わせれば、水と陸地の間にエコトーンを回復させる行為である。あるいは、最近よくできる公開空地も、建物の間のエコトーンを回復させると位置づけるべきだ。また住居地域と工業地域の間にできる遮断緑地、さらに都市の周辺のグリーンベルトも、広い意味でのエコトーンという位置づけができる。こういうエコトーンをつくっていく、あるいは回復させる考え方が生態学的に見た場合にこれからは大事になっていく。

それから三点目に、前から言っていることなのだが、「ミクロ・エコシステム」および「ソシオ・エコシステム」を空間の中で考えていくことが必要である。ミクロ・エコシステムとは、小さく言えば「梅にウグイス」ー一本の木の中にでも虫や鳥が棲んでいるーという小さな生態系のことを言い、例えば街路樹の中に鳥をすまわせることを計画的にやっているフランクフルトのようなところもある。一つの緑の空間の中にも、それなりのエコシステムをつくっていく考え方が必要だと言うことだ。これをさらに社会経済的にまでに広げようと言うのがソシオ・エコシステムで、琵琶湖などがいい例である。

いで・ひさと


琵琶湖の葦群落は、ヨシキリという生物が棲み、葦そのものは水質を浄化する大変重要な役割を持ち、そして葦はよしずの材料として使われる。しかもこれをうまく育てるために毎年野焼きをやって、その野焼きを観光に利用し、人々を寄せ集めて水郷観光をやっている。葦という一つの材料を中心にして生物生態系、あるいは社会経済的な行為がミックスしたシステム、こういう意味が、本当の意味での生態学的に言う地域づくりにつながるのではと思っている。
最後に、pride of placeという英のcivic trustが唱えた言葉があるのだが、これは「住民の参加」と言うことを非常にうまく言い表しているのではないかと思う。かつて内村鑑三が講演を元にして出した『デンマルク国の話』という本があり、デンマークが敗戦から回復するために、木材生産を上げることから・・環境がよくなるという話なのだが、内村鑑三が本当に言いたかったのは、物的な環境回復だけではなく、それを通して人々の自信が出てきたことによる精神的な心の回復という点ではないだろうか。その結果、自分たちの住む地域に誇りを持つことになる。そこに住民参加がつながっていくことが期待されていると思うのである。


曽宇 泰子(長岡造形大学教授)
一般的に、「環境」という言葉と「景観」という言葉がごちゃごちゃに使われているような気がする。そこで「環境」を捉えるときには大きく三つのレベルに分けて考え、それが重層したものと理解すると分かりやすいのではないだろうか。
まず、ベーシックな土地、基盤のレベル。そこに水の循環とか空気の問題とか、特に工業地帯では土や水の汚染といった、物的な環境問題がある。そのような土地基盤の環境の上に動物、あるいは植物の生命現象が発生し、そこにさらに人間の生活が展開していくレベル。生産活動や普通の活動である。工業施設、生産施設、あるいは生活する住宅、そういう空間実体としての環境、つまり生活空間としての環境というレベルがある。
そういった人間生活のあるところに社会生活が発生し、歴史、あるいは文化などが発生してくる。最近では情報社会という言い方もあり、いろいろな地域で広く情報が交換されたり、共有された文化として捉えられた環境のレベル。
そうして三層に重なった環境が意識的に捉えられたものを景観と言えるのではないかと思っている。

地域ビジョンをつくっていくときの方法として、先ほどのお話に例として出てきた、エムシャーパークのプロジェクトは非常に参考になるのではないかと思う。
私自身も一九八二年から近年まで独で仕事をしてきた際に、環境都市計画や緑地計画などにたずさわるなかでエムシャーパークについては当初からユニークな計画であると注目していた。エムシャーパークのあるルール地方は独の中でも非常に特殊な地域である。なぜならば、独は都市部分と郊外の田園部分が割合はっきりしているが、ルール地方は都市と都市の繋ぎ目がわからない、日本の都市構造に似ているところがある。
ここで特徴的だと思ったのは、八八ものプロジェクトが非常に多元的で多様であること。先ほどのレベルで言うベーシックな部分に関わるものから、生活空間に関わるものあるいは文化的なものに関わるもの、主体も動機も多様かつ多元的なのである。一元的な全体計画をブレイクダウンするのではなく、それぞれのプロジェクトは独自に進められているけれど、エムシャーパークという空間的には20km×70km、時間的には10年間という大きな網を全体にかぶせるやり方、そういうところは非常に参考になるのではないか。去年で一応収束したけれど、まだ端緒に着いたばかりでこれから進められる計画もある。そういった空間的・時間的に動的な計画をくくっていく方法論として学ぶべきところがある。

また、そこにあるものの論理を大切にしていこうと言うこと。それは緑地をつくるとき、土地のポテンシャルやあるいは生態学的なものをベーシックにして緑化をしていくことでもあるし、たとえば工業地帯であれば、ボタ山などの土地や水の汚染といった、在るものをよく見極め基盤を整えながら、その浄化を進めていくことが大事である。工業施設の整備に関しては、一〇〇年間地域の生活を支えてきた、大事な文化財であるという認識。そういう歴史性を継承する意味で、その場所に在ること、そこにものが残っていること、そういうことが非常に大事だと思う。たとえそこにものを残せなかった場合にも、そこにそういう生産活動があった、という思い起こせるような整備の仕方、そういう方向でやっていったらどうか。
エムシャーパークのデザインセンターはもとは採炭施設だったのが、そこの炭坑の部分についてはそれがそのまま残されて見学できるようになっており、一九八〇年代の半ばまで石炭を掘っていた炭坑夫の人が直に案内をしてくれる。あるいは一九七〇年代、独では労働人口が不足してトルコから労働力が流れ込んでいたが、彼等が住み着いていた古い住宅地を整備した後も、その人たちが住んで生活している。

そういう風にそこにあった施設を、あった場所に継承していく、現在あるもので将来に何が残せるか、何を付け加えていくか、そういった歴史性の積み重ねが、結局その地域らしい景観をつくっていくのではないか。それは必ずしもいわゆるきれいな景観というわけではなくともそこに住んでいる人たちがこれは自分たちの景観であって、それを育てていこうと思えるような景観であるべきではないか。
尾島先生が景観と観光というお話をされたが、観光とは「国の光を見る」と読める。結局その土地に暮らしている人たちの光輝きを、訪れた人たちが見て愛でる、という意味だと思うのだ。そういう意味でも、土地らしい景観は、積み重ねられてつくられていくのが望ましい。

そう・やすこ

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